大阪
朱印番号 P37/P38
寺 社 名 高倉寺寶積院
別称 etc  
所 在 地 大阪府堺市南区高倉台2丁9-15
     大修恵山
参 拝 日 R03.08.24
宗   派 高野山真言宗
主な札所 河泉二十四地蔵霊場第24番
  和泉霊場第19番・第20番
   
御 本 尊 薬師如来
特記事項
 泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅から東南東へ 1.3km
の所にあります。拝観資料・略縁起によると、
文武天皇慶雲2年(705)に朝廷内勅命により行基
菩薩によって開基されました。朝廷より多くの
御朱印地を賜り、鎮護国家の道場として定めら
れました。天平年間に七堂伽藍を造営し、49子
院を建立し、以後歴代天皇の勅願寺となりまし
た。 弘仁年間(810頃)に弘法大師が当山に参来
し、大日如来尊像を刻み安置され、以後真言宗
となりました。80代高倉天皇が当山に御幸され
た時、深く感銘を受けられ「大修恵山高倉寺」
と云う山号寺号を下されました。寺運益々隆盛
を極めましたが、南北朝時代、楠木正成、正行
父子と共に北朝軍と戦いこれに敗れ、更に室町
時代、応仁の大乱により山内ことごとく焼失し、
衰運に向いました。ようやく修復出来た頃、天
正年間に織田信長の焼討ちに会い、またしても
全焼しました。 慶長の末に至り、岸和田城主
小出播磨守秀政の三男小出大隅守三尹が分家し
て、当山に帰依して代々の祈願所とし廟墓を山
内に築き、諸堂の修繕改築をし大いに当山の興
隆を計りました。現在の建物はその時のもので
す。明治二年新政府の廃仏棄釈令により、本坊
宝積院以外の数寺は廃寺となり取り壊され、同
時に境内地及び田畑十数万坪は国有財産として
政府に取りあげられ窮地に陥りました。熱心な
檀信徒の寄進を受け、昭和十一年から伽藍・諸
堂の大修繕を行い、次いで宝積院の本堂、客殿
の解体修理をし、同五十年に完成すしました。 
泉北ニュータウンの中心にありますが、境内に
は樹々が繁り静かな環境の中にある落ち着いた
感じの寺院です。
(*1)江戸時代、幕府が寺社などに御朱印状を
下付して年貢諸役を免除した土地
 
 

 

<高倉寺>   <寶積院>   <拝観資料>
 





  

寺院前の道路     高倉寺寶積院の寺号標

 

三 蔵 庵 寶積院の寺号標

寺号標を過ぎたすぐ左に三蔵庵があります
 
参道を暫く進むと正面に寶積院があります。寶積院の寺号標の90度横は高倉寺の寺号標にもなっています。

 

  寶積院前から見た参道     
 

 

寶積院山門      寶積院の庫裏

高倉寺の寺号標     手 水 舎


高倉寺の由緒板     定め書き 

金   堂     弁 財 堂
 
弁財天・歓喜天が祀られています


宝起菩薩堂     御 影 堂 
 


   大 日 堂     鐘   楼

宝起菩薩堂の横にありました。
お堂名の表示が無く、大日堂ではと思いますが
 


宝篋印塔     天 王 院 

境内の裏手に宝篋印塔らしきものがありました
歴代住職のお墓のようです