京都
朱印シュイン番号バンゴウ J38
寺 社 名 義仲寺
ベツショウ etc  
トコロ ザイ 滋賀県大津市馬場1-5-12
     朝日山
サン オガ H31.2.23
宗   派 天台宗系単立
オモな札所  
   
   
ホン ソン 聖観音菩薩
特記トッキ事項ジコウ  
 京阪・JRの膳所駅から北へ500mの所にあります。
拝観資料によると、義仲寺は大津市馬場一丁目にあ
り、旧東海道に沿っています。古くは、粟津ケ原と
いい、琵琶湖に面した景勝の地で、朝日将軍木曽義
仲公の墓所です。治承四年(1180)に義仲公は信濃に
平家討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)に平家の大軍
を討ち破り京都に入りました。翌寿永三年に鎌倉の
源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の
軍勢と戦い、この地で討ち死にしました。その後、
見目麗しい尼僧がこの義仲公の墓所のほとりに草庵
を結び、日々熱心に供養していました。里人がいぶ
かって問うと、「われは名も無き女性」と答えるの
みでした。が、この尼こそ義仲公の側室巴御前の後
身でした。尼の没後、この庵は「無名庵」と称えら
れ、或いは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲
寺とも呼ばれました。時代は移り、戦国の頃には、
当寺も大いに荒廃しました。時に近江国守佐々木侯
は、石山寺参詣の途中この地を見て、「源家大将軍
の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建
し寺領を進めた。その頃、当寺は石山寺に、近世に
至って三井寺に属しました。貞享年間(1684-1688)
に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿
舎としたのはこの頃からです。元禄七年(1694)に芭
蕉翁は大坂の旅窓で逝去しましたが、「骸は木曽塚
に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、
現在地に墓を建てました。境内は広くはありません
が多くの句碑があり、結構見所の多い寺院です。
    
 
<朝日将軍> <正風宗師>
       
<拝観資料> <記念印>


 

境内案内板     山   門
 

巴地蔵堂 井  戸
 

史料観に掲げられた寺の略記     史 料 観
   

史料観内     史料観内



伊藤若冲の天井絵『四季花卉の図』の複製です。
本物は翁庵の天井にあります

  朝日堂(本堂)     
   

無 名 庵     翁   庵

身余堂文庫     粟津文庫

  木曽八幡宮     
 
境内の奥に鎮守社がありました
 

義仲の墓     松尾芭蕉の墓
松尾芭蕉の門人・島崎又玄の句、『木曽殿と背中合わせの寒さかな』
と詠まれている、義仲と芭蕉の墓が並んでいました。

境内には芭蕉をはじめ多くの句碑があります

句碑(又玄) 句碑(其桃)     句碑(方堂)

木曽殿と背中合わせの寒さかな

鴬の頻に鳴くや雨の花

むべ三顆翁を祀るけふにして

句碑(露城) 句碑(芭蕉)     句碑(兼輔)

さまざまの露ひとむらのさかり哉

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

木曽塚の夏草ひくも宿世かな
句碑(芭蕉) 句碑(蝶夢幻阿佛)     句碑(蟻洞)

古池や蛙飛こむ水の音

初雪や日枝より南さり気なし

よい處へちればさくらの果報かな
句碑(魯人) 句碑(芭蕉)   句碑(羽州)  

月の湖鳰は浮きたりしづミたり
 行春をあふミの人とおしみける  身のほどを かへり見る日ぞ 初しぐれ